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一時とび出たところ、善悪わけに、世界の人百人、たとえ ば、九十九人まで悪、一人だけ善、一人の善が強いか悪が 強いか、世界少し見えかけてある。(『復元』37) 「今の世界は百人の内九十九人までが、力づくで世渡りをし、支配者に仕 えることを良しとしている『悪』なのです。けれども、これからは、互いにたす け合って、高低なく一人残らず喜ぶ世界を創ることが天の理(人の本性)だ ということを学んだ人間が世界を創ってゆくのです。この一人の善が強いの だから、今は九十九対一であっても、次の時代は必ず明るく変わってくる。 良く見ていなさい。」という意味です。 ここで言う「善」の人を、おふでさきでは「にほん」と表現している。 国名や民族名としての「にほん」ではない。日本人中の日本人大日本帝 国の天皇を「高山の真の柱は唐人や」と、侵略主義者として「から」と断定 している。 教祖がこの世をたすけ合いの世界にする真理として教えたつとめの理と 同じ心を「にほん」と表現したのである。つとめの理の三つのかどめを取次 ぐのがさづけである。 元の理 「人の喜び楽しむように 生れついたの この私」生物としての 本性の確認。 天然自然の理 「たすけ合えば勇む 争えばいづむ ここまで育った こ の私」現在の自分の性格の確認。 陽気づくめの理 「陽気づくめの世を創る 難渋たすけの生き甲斐で 陽 気に暮す この私」これからの安心立命。 つとめで教えた「この私」のように成人している事を自覚した者が「にほ ん」であり「善」なのである。「闘争本能を持っている私」と思うことが「悪」と 言われているのである。 世界の古今東西の思想・宗教を見ても、多神教、一神教、輪廻転生の思 想は勿論、仏教まで欲を持つ人間が作っているこの世界は「苦の娑婆」と 見ているのである。教祖はここはこの世の極楽と言われた。 いまゝてにない事ばかりゆいかけて よろづたすけのつと めをしへる 六 29 日本文化も古来から「にほん」ではなかったのである。教祖の教えを理解 し「しっかり思案」して、つとめで教えた「この私」である事を確認して、「世 のかんろ」になる心定めした者が「にほん」であり、「善」なのである。 教祖が櫟本分署から帰られる時「百人のうち九十九人まで悪、一人だけ 善」と言われたのは一パーセントという意味ではない。この世界に一人とい う意味である。 教祖と同心となり、ひながた歩もうと心を定めた者よ、独善と言われよう が、孤高を楽しもうではないか!
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