教典廃止を最先端で推進していたのは、中山正善二代
真柱である。


 「今こそ『天理教教典』廃止の旬である」という言葉が「ほんあづま」の紙
面に表れると、主筆の八島英雄が、先走って教典廃止を唱えているように
思う人が多いようだが、最先端で推進していたのは中山正善二代真柱であ
る。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、八紘一宇(天皇の世界支配)を目
標に掲げ、世界の数十ヶ国と戦っていた天皇制軍国主義国日本は、連合
国に無条件降伏をした。

 その直後、中山正善真柱は、教理を教祖の教えに復元する事を定め、秋
季大祭(十月二十六日)には、敗戦まで削除されていた、おつとめの「よろ
づよ八首、三下り目、五下り目」を復活してつとめた。

 昭和二十年十月二十九日には「復元講習会」と銘打って教義講習会が
行なわれた。今まで教義書としていた、(一)泥海古記、(二)みかぐらう
た、(三)おふでさき、(四)おさしづ、(五)天理教教典のうち、応法の理で
ある「泥海古記」と「天理教教典」を除き「みかぐらうた」「おふでさき」「おさ
しづ」を天理教教義の原典と定め、昭和二十一年一月二十六日に「復元」
を目標に教祖六十年祭を執行すると宣言した。

 昭和二十一年一月一日には天皇の人間宣言の詔勅が出て、日本の神
話に基づく天皇の地位は「架空なる観念」であると宣言された。天皇とその
先祖が神であることが天理教真柱と大日本帝国天皇によって否定された
のである。晴れて「つとめの理が神」であり、「天皇も人間、我々百姓も同じ
魂」と言える世になったのである。

 しかし、昭和十六年には従来の天理教青年会を始め、婦人会、教師会、
その他の組織まで統合して天理教一宇会という名にして、「天皇にまつろ
わぬものを平らげ(殺し)て、八紘一宇を」と、教えていた天理教は他の神
道教団よりも軍国主義的教団であるとGHQ(占領軍総司令部)に見られて
いたので、それまでの思想弾圧で教祖の教えに対する研究不足で、GHQ
に、原典が「たすけ合い、自由、平等」の教えであることが理解させる事が
難しく、やむを得ず応法の理として新たに「天理教教典」を作った。

 天理教教典の前編は、占領軍の主力の信仰がキリスト教である事に合
わせ、後編は、日本が圧力をかけたアジア諸国民の信仰に合わせて輪廻
転生の教理として、GHQの布教許可を得、原典もこの教典に合わせた解
釈で説く事とした。二代真柱は公布に当たって「この教典はGHQ対策の応
法の理である、十年間の期限で廃止または大改訂を行なう」と発表した。し
かし朝鮮戦争が起こり、天皇制復活か、再軍備かという気運になり、期限
の昭和三十四年になって教規改正が行なわれたが、教会本部の役員の大
多数を占める山澤神道色の強い者たちによって、二代真柱の教典廃止が
阻まれたのである。

 八島が教会本部修養科の教育内容の改革の御用を頂いたのは、教祖八
十年祭からである。「つとめの理が神」という原則を掲げ、具体的に「この教
典は近く廃止されるか大改訂が行なわれる。教典の教理とおつとめの教理
に矛盾を感じたら、みかぐらうたに基づいて、修養科生を指導してください」
という言葉で一期講師に接した。

 当時修養科が手にした教科書は『みかぐらうた』『天理教教典』『稿本天
理教教祖伝』であった。みかぐらうたはお手振りの地歌として扱われ、「み
かぐらうた講義」の時間は週一時間のみで実質講義は無に等しかった。毎
日担任教師により教典の講義が行なわれていた。

 教会本部の修養科は、応法の理である『天理教教典』と『稿本教祖伝』に
よって「天皇の先祖が神である」と教えていたのである。山澤神道の本拠
教会本部の修養科へ、「つとめの理が神」「天皇も人間我々百姓も同じ魂」
という教祖の教えを普及すべく潜入したようなものである。同志は、先頃亡
くなった藤橋光春(水口大教会前会長)、現本部員中田武彦、同田川勇
(生野大教会前会長)の四人であった。

 修養科専任講師三十数人、一期講師毎期三〜四十名、次々と修養科内
に同志を得て、実績があがりかけたと思われた、昭和四十二年十一月十
四日、二代真柱の突然の死によって、本部の教育改革は挫折した。

 教会本部の教育姿勢が神道の差別思想に逆行した時、天理時報の差別
記事事件が起こり、対応しきれず、高橋道男表統領は急死した。替わった
中山慶一表統領が「私の代りに教祖の教えが平等思想である事を『みちの
とも』に連載してくれ」との依頼で「私の教理勉強」が連載され、天理教は
神道連合会を脱退すると表統領の宣言があり、天理教同和推進委員会が
作られ、同和団体の追及が止んだ。

 その直後「高山に暮らしているも、谷底に暮らしているも同じ魂」というお
ふでさきを引用したのに対して、教会本部の教義及び史料集成部から「教
祖と御家族の魂は別だ」と言い掛かりを付けられて、連載が中止となった。
結果として現在八島英雄は異端者として処分され、本嬬原分教会の代表
役員は一度も教会へ来た事もない桝岡美治なる人物の名義となっている。
本部・大教会からのいやがらせ、教会からの立退き要求の圧力を受けなが
ら、櫟本分署跡の修理、櫟本分署跡参考館の運営、教祖の教えの復元に
励んでいるのである。

 みかぐらうたと教典の矛盾は、気に入らぬ者を、どちらかに違反している
と言い掛かりを付けて、恣意的に罷免できるのである。

顕正教祖伝 第五回
顕正教祖伝 第五回



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