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明治三十六年、天皇公認の、『天理教教典』を作った 明治三十六年、神道本局部属神道天理教会は、天皇公認の天理教に一 派独立するため、『天理教教典』を作った。天皇の先祖十柱の神を天理大 神として信仰する内容であった。 然し、実際に布教しているものは、教祖がおつとめで教えた真理を伝え、 矛盾を解くことによって、悩みを解き、病を治し、事情を治めておたすけをし て来て、その信者が他の宗教の信者を圧して多くなったから、一派独立の 話も出て来たのである。そして今までにない真理として皆が大きく受止めて いたのが教祖が警察という公的機関で宣言した「天皇も人間、我々百姓も 同じ魂」という教えであった。 明治三十七年に、『天理教教典』に従わず、教祖の教えを説き続けてい た、教祖の弟子の自覚を持つ天理教教師一四〇〇名を、天理教教会本部 が辞任させたのである。その中には、教祖の高弟として知られ、後の大教 会「中津」の会長を辞任させられ、おぢばに帰って本席になだめられ(おさ しづ参照)たが一ヵ月後には死亡した泉田藤吉、また、「島ヶ原」の会長で あったが刀で追われて教内から消えた万田万吉等、名だたるおたすけ人 たちがその大部分を占めていたのである。 この人たちを追いやったのは、まつろわぬ者は平らげて、天皇の支配す る世界を作る「八紘一宇」を目的とする神道を教える天理教の本部であり、 その中核をなしたのが、山澤為造であった。 教祖の弟子の教団の中で、教祖に背いた自分に反対する者に天皇政府 の弾圧を向けて制圧したのである。 天皇制軍国主義国家日本は、諸外国の反対を受けて、亡びた。天皇は、 天皇とその先祖を神とする神話を架空なる観念とする詔勅を出して戦犯を まぬがれた。 昭和四十四年四月二十七日付『天理時報』は差別記事事件を起こし、社 会の糾弾を受け、対応に窮した高橋表統領は急死した。対応できなかった 主な点は、天理教教規の定める真柱の地位が差別的であるのと、戦後作 り直したと言っても『天理教教典』が山澤良治郎の泥海古記に基づいて、 天皇を神格化する国生み神話の洗い直しであった事が原因であった。 高 橋表統領の死後、収拾を付けるために中山慶一表統領が就任して、八島 英雄に「私に代わって教会長たちに、教祖の平等思想を教育するように」と 依頼をした。そして『みちのとも』に「私の教理勉強」の連載が始まった。 『みちのとも』は毎月増刷したが売切れ、天理の紙価を高めた。 教内全体 に教祖への復元の気運が高まり、青年会は日本武道館で「惟神之道とお 道の教理」=特に終戦までの国家神道と比較して=というパンフレットを出 して、天理教青年大会を行い、二万五千名の参加を得、中山善衞三代真 柱の「律ありても心定めが第一」という講演で盛り上がった。 天理教同和 推進委員会が作られ、同和団体の追及がやんだ。直後、八島が書いた武 道館で出したパンフレットの内容。東本大教会機関誌「とうほん」の内容 に、言いがかりが付けられ、九月二十七日、堀越儀郎本部員と、次いで主 査室主任宇野晴義と八島英雄と立会人を付けて対決が行なわれ、八島の 主張が正しい事が証明された。宇野本部員の捨てせりふは「右翼が怖くな いのか」であり八島の返答は「右翼が怖くて、教祖のひながたが通れるか」 であった。 然しその直後、十月一日に田中喜久夫道友社社長が更迭さ れ、永尾廣海が道友社社長に就任、直後に「みちのとも」の原稿に「高山 に暮らしているも谷底に暮らしているも同じ魂」というおふでさきを引用し、 「どんな者でもひながた通りに通りた事なら、皆ひながた同様の理に運ぶ」 というおさしづ引用が不当であると削除され、連載は中止になった。 昭和 六十年、櫟本分署跡保存会代表になっていた八島英雄は「ほんあづま」十 二月号誌上で、教祖百年祭を機に、教会本部と同じように、各教会も天皇 の先祖の鏡を神道式の社に祀ることをやめて、かんろだいを教会の目標に すべきであると提案した。十二月二十九日、表統領の代理と称する東本大 教会役員三名が本吾嬬分教会へ来て、『ほんあづま』の記事は教祖の教 えには合っているが、教会本部の教え「天理教教典」に外れているから、既 刊の『ほんあづま』数十万冊をすべて回収して、教会長を辞任して、真柱に お詫びしろ」と言った。八島の答「真柱に心配かけた事は詫びるが『ほんあ づま』の回収も、教会長辞任も承知できない」と物別れになった。 その後 ひそかに八島を審判会で罷免し、東本大教会役員舛岡某を本嬬原分教会 代表役員に任命、即日登記、本嬬原分教会は月次祭当日に裁判所に差し 押さえられた。本部と大教会が立退き要求の訴えを起こしたからである。 八島は、地位保全の訴えで対抗し、法廷で、八島の罷免を決定した審判会 委員長永尾廣海は「八島は『みちのとも』連載当時から異端だ、私が罷免 した」と大見得を切ったが、二十五年前のゲラ刷り原稿を目の前に突き付 けられて、青くなって立往生し、心臓の不調を訴えて、憩の家病院に逃げ 込んだままになっていた。 永尾に先立つ公判で、八島を処分した当時の 天理教表統領であった清水国雄が証言した。「櫟本分署跡の修理保存 は、天理教信仰の根幹に関わるから、させることはできない」と言明した。 そして続いて、「八島教学を公式に異端と言った者は一人も居ない。真柱を 始め、教会本部の教義及び史料集成部も、天理大学、天理教校等公式機 関で八島を異端と言った者は居ない」と証言したが、本部に帰って、他の 本部員たちに何故本部が不利になる本当の事を証言したのかと責めら れ、憩の家病院で静養している。尚、八島に対する立退き要求の訴えは東 京地裁で却下の判決が下った。 また、櫟本分署跡保存会、事務局長川 本しづ子が会長をつとめる本常一分教会も、会長を理由もなく、審判会も行 なわず罷免して、裁判になったが、罷免申立てした東本大教会長中川うめ 子が証言台で、立往生して、東本大教会長と、処分した天理教代表役員 表統領が、謝罪金を出して和解して、現在は東本大教会より独立し、教祖 直属の本常一分教会長川本しづ子になっている。 九月二十八日永尾廣 海本部員の死が報ぜられた。人の死を喜んではいけないとは思うが、真柱 の復元の歩みを妨げていた、大きな障害がなくなった事は、真柱、飯降表 統領、板倉内統領の復元の歩みが、明朗軽快になる事だろう。 内統領 は、日本武道館の青年大会直後「服従しない者を平らげて、私の支配する 世界にするという八紘一宇を進める天皇になぞらえて山澤神道総帥、中山 正信天皇と呼ばれていた人に「八島をつぶせ、青年会をつぶせ」と言われ た当時の天理教青年会委員長板倉知雄その人である。 武道館の青年大 会以後今日まで、正信天皇、永尾弾圧司令官を始め、教祖に背いて山澤 神道にへつらって復元教学を弾圧しながら自分の通り違いの苦悩で倒れ た領袖たちは、武道館直後の堀越、宇野を始め、喜多、上田(民)等枚挙 に暇がない。地下壕にこもっている秀信参謀総長もこうなっては何もできま い。 保存会代表は、教祖がおつとめで教えた真理は、潮が満ちて来るよ うに浸透すべきで圧力や恐怖感で押付けてはいけない、戦いに例えること は不適当と言われるが、ほんあづま編集室としては教祖の教えを正しく伝 えながら、反逆者、異端者などの一方的攻撃に耐えるのも防戦という永い 苦しい戦いであったと感じている。 「復元」の歩みが軽快になったことを感 じる。
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