顕正教祖伝 第十回

 生い立ち

                 八島 英雄

 今日の主題は、『稿本天理教教祖伝』の敷いた順番から
行きますと、「生い立ち」と言われる立教以前の出来事につ
いて、お話しをさせていただこうと思います。実は、立教以
前のことを『稿本天理教教祖伝』では大変美化して書かれ
ている、という非難が数多く寄せられるのです。

修養科生が初めて読みましても、ここで「歯が浮いてしまう
ような感じがする。」という言い方をするのですが、それが正
しい見方だと私も思います。

 教祖中山みきの伝記が教祖伝というわけですが、私達は
ひながたを正確に理解して、そして、自分の生涯をそこにか
けるために、教祖の示された手本をたどるのですが、それ
が信用できないというと、信仰の基本が崩れてしまうことに
なるのです。

そういうわけで信用できる教祖伝を求めるのです。一番基
本の話は、中山正善二代真柱さんは、「今まで教祖伝がい
ろくと数多く書かれているけれども、実際は立教以前のこと
はほとんど分かっていない。」と仰っているのです。これは
二代真柱さんの著書何冊かに、そういう意味のことが重ね
て書かれているのです。

そして、大きなその理由といたしまして、前川家では、教祖
に該当する年齢の女の子としては「るい」という名前の記録
は残っているけれども、「みき」という名前は見当たらない。
ということを書いておられるのです。これは『六十年の道草』
にはっきり書かれているのです。

そうなりますと、人の「何歳の頃は」という話を伝えるのに兄
弟が何人もいましたのに、名前が伴っていなければ誰が何
をやったか分からないのです。名前さえも正確に伝わらない
人が、どの子が何歳の頃こうでありました。などというのは
はなはだ頼りない、信用できない。と言うのが実状です。

教祖伝が各種出されましたが、その中で、有名な人のかか
れた教祖伝というのが、村松梢風の『大和の神楽歌』という
のが、むかし天理時報に連載になりました。それから、戦後
連載になったのが、『教祖様』という芹沢光治良さんの連載
が、なんと言っても日本の文学界でトップと言われていた人
が書いたものなのです。

その伝記でも、教祖の伝記を正しく伝えたくない人が、信者
から見ると教祖の近くにいる。中山家のご親戚の中に教祖
の伝記を正しく伝えてもらいたくない人達がいるということ
に、この教祖伝作者たちも気付かなかったのです。

そして、その人たちが教祖のそばで、教祖の世界たすけを
妨げたのです。当時、天皇制軍国主義国家というものが、
幕末から出てきまして、教祖が身を隠される明治二十年ま
で、天皇制軍国主義の教育を、徹底して国民全体に叩き込
んでいる時代の出来事であったのです。

ですから、国の方針に従っていた方が、身の安全というより
も、自分の地位を高めると判断した人が教祖を正しく伝える
ことを妨げたのです。

 はっきり言いますと日本の天皇制軍国主義の方針という
のは、天皇の世界支配という八紘一宇が目標で、支配者は
天皇一人なのです。天皇国家では国民は支配者天皇の奴
隷でしかなかったのです。天皇一人の世界支配というもの
が、目標であり方針であった。

教祖のは「人々の陽気づくめの世界」と、これは正反対の方
針でありますから、教祖を知らない人ではなく、教祖を知っ
た人が、教祖と反対の立場に立って身の安全を図る、自分
の出世を図るという傾向が出て来てしまっていることを、周
りから見ていると気が付かなかったのです。

今、名前を挙げました二人の作家も、教祖の身近に教祖の
真実を知られたくない人たちが、教祖が身を隠された後で
も、昭和の時代になりましても、また、平成の時代になって
も、自分たち一族の、先祖の、教祖に対する犯罪行為が、
表に知れないようにと工作をしている人達がいるというの
は、はたから距離を離れた人には分からなっかったのです。

そういう事情がありまして、真実を知られたくない人達が、う
その情報をこの大家、芹沢さんなどは、ノーベル文学賞を
日本で最初に貰うのは、芹沢さんではないかと言われてい
るほどの大家だったのです。その人に情報操作をして、生
涯取り返しのつかない痛手を与えてしまうような結果になっ
たのが、この『教祖様』執筆ということであったのです。

ですから、『稿本天理教教祖伝』が、大きな虚構をなんとか
隠すために書かれたという性質だということを、先ず知って
おかないといけないと思うのです。

『稿本天理教教祖伝』を読みますと、修養科の教育でも教祖
伝は毎日大抵一時間あるのですが、そのとき見ましても、読
む時間にたくさん取られまして、本当の真実を伝えるという
時間が無くなってしまいますので、今回は最初に読んだもの
として進もうと思います。

そういうわけで、正すために読んでいるというつもりで進み
たいと思います。

  誕生

ここで問題点を順に挙げますと、先ず教祖のことがよく知ら
れていない、中山家の戸籍には、教祖が生まれたのは寛政
十年四月四日と書いてあるのです。のちに教祖伝を書くこと
が重なって、明治三十一年を越えた時点で、天理教は一派
独立をするために教祖伝を編纂する段階になってから、記
録が十八日と訂正されているのです。

その訂正した記録は、何を根拠にしたかわからないのです
が、初代真柱が公式の戸籍が四日と書いてあるのに、十八
日と書き換えてあるのだから、何か根拠があるのだろうとい
うのが、二代真柱さんの理解で、実はわからないのです。

いずれにせよ、これは陰暦四月のことですから、今に直す
と、六月の梅雨時に該当するのです。その時にどのような
花が咲いていたかというようなことも、がらっと変わってしま
うのではないかと思います。

誕生のときに、村松梢風さんが書いた『大和の神楽歌』で
は、四月十八日に大和神社へ前川半七正信さんが参拝し
て、帰りにお神酒徳利を道端で見た。そして、帰ってきたら
娘が生まれていたから、みきという名前をつけたということ
になっているわけです。

しかし、前川家の記録に「るい」という名前があって、この方
がのちにみきといわれた方に該当するというのが前川家の
中山みき認識の状態とすると、この話は、作家が思いつい
て、後世立派な人と仰がれる人であるから、多分子供のと
きも立派であったでしょうという推定の下で書かれた記事で
あると思います。まして、朝、五色の雲がたなびいたなどと
いうのは、多分仏教の経文の影響ではないかと思います。

当時の教育は、皇族華族は神道ですが、これも建前で、実
は天皇も引退すると坊さんになっていたというくらい仏教が
浸透していたのです。武家も正式な政治理論は儒教で学ん
だのですが、政治的行動の一番はっきりしていたのは、合
戦だったわけで、人を殺した後、仏教の中に身をおかなけ
れば、安らぎがない状態であったのです。

まして、人口の九割を占める庶民にいたっては、仏教のお
寺に住民登録をして、坊さんの話を正しいといっていなけれ
ば、キリシタンとして命に関わる弾圧を受けるというのが、
当時の社会情勢でしたから、庶民の持っていた常識は、仏
教教育の結果であったのです。そのように私たちもしっかり
捉えておきたいと思うのです。

ところが、教祖伝が書かれたときには、神道天理教の教祖
として書かされるというのが、どんな作家も天理教に頼まれ
れば、読者は神道の立場の人が多いのがわかりきっており
ますから、実際は教祖も仏教教育を受けて成人している、
教祖の周りでお話を聞く人も仏教教育を受けた人、用語は
ほとんど仏教用語という状態を見ても、神道国家、しかも天
皇制軍国主義国家の中で、みきさんは神道を教えた教祖で
あるという立場で書かれているので、実状と違うものがどん
どん出てきてしまったのです。

教祖中山みきは、寛政十年四月十八日朝、大和国山辺郡
三昧田に生れられた。

ということについて今前置きがあったわけです。

父前川半七正信は、領主から無足人に列せられて名字帯
刀を許され、大庄屋をも勤め、母きぬは、同村長尾家の出
で、淑やかな人柄の中にも、特に針持つ技に秀でて居た。

父前川半七正信が無足人と言いますが、実は教祖が生ま
れたときは無足人ではなかったのです。文政十年に、一代
限り無足人という政策を藤堂藩が使って、農民の中の庄屋
層を武士扱いにして、幕末戦争の戦力に備えたというの
が、幕末の藩の行政だったわけです。そして、その時に前
川半七正信も無足人に列せられていて、それ以前のお墓に
は前川という字は、使われておりません。ですから、それ以
前、前川という苗字は名乗っていなかったと思われるので
す。次に

 教祖は、三歳の頃から、なさる事が他の子供と異って居た
ので、近所の人々も、人並すぐれた珍らしいお子やと言い
はやした。

いいはやしていないから、名前も伝わっていないのです。こ
こが虚構の始まりなのです。

六歳の頃には、針を持ち始め、糸紡ぎをまね、網巾着を編
み、糠袋を縫うては、好んで近所の子供達に与えられた。

 世の中には、しょうがない子供とよい子供、良い子と悪い
子というのが頭の中にあって、どう見ても後に世界中の親と
仰がれた中山みきになった人が、良いほうに決まっていると
いう思い込みで書いているので、当時の子供の、この年代
ではこういういいことをしているということが書き綴られてい
るのです。

よく美化しているというのですが、ちっとも美化しておりませ
ん。できのいい子供は、このくらいの良いことは皆していま
す。私なども、後に話を聞いてなるほどといった人は、子供
のときに膨れっ面してだんまり屋で通っていたのに、それさ
えも何かすばらしい人が沈黙の中から真理をいいだしたよ
うに大変に飾っていう人も親戚の中にはいるものです。や
ぱり好意的な本を出すとき、そういうことが語られると、五つ
神童、十奇才、十五過ぎてただの子となるなどというのは、
十五過ぎた頃は、皆よく見ているので、嘘が通用しないとい
うようなことが、多いわけです。決して、そんなにほめ過ぎで
はないのです。ごく当たり前に、後世尊敬された人なら、こ
れ位であったろうという推定で、幼時のことが書かれている
ということです。

   教育

 手習いの手解きは、父親から受けられたが、九歳から十
一歳まで、近村の寺小屋に通うて、読み書きなどを習われ
た。

 教祖伝を正確に書こうとして調べた方がいるのですが、教
祖の時代、近村に寺子屋はなかったのです。

 近村に寺子屋を開いて、弟子が長年の間に、百何十人も
数えたと伝えられている浪人で寺子屋の先生というのが、
調べると出てきたのですが、教祖よりも二十年も後の出来
事で、教祖の当時はなかったらしい。

 そして、教祖が書き残したおふでさきに使っている漢字の
数、仮名でもその言葉を全部分類しても、百数十語しか使っ
ていない。文字にいたっては全く数が少ないというと、寺子
屋に通って習うということは、殆どなかったのではないかと
推定されるわけです。

 針仕事は、師匠につく事なく、母の膝下でひとりでに上達
されたが、一度見たものは、そのまゝ型をとって細工物に作
り、十二、三歳の頃には、大巾木綿を裁って、思うまゝに着
物を仕立てられ、機織りも、人並優れて織りこなされた。又、
信心深い家風の中に育つうちに、いつしか習い覚えて浄土
和讃を暗誦されたのも、その頃である。

 今でも落ち着いている人は、学校教育で覚えることを負担
させられても、法要になれば、ちゃんと和讃もうたう子供も大
抵どこかにおります。できのいい子供は、皆そんなもので
す。けして、ほめすぎではないのです。

   結婚

 庄屋敷村の中山家へ嫁いで居た叔母きぬが、姪の人並
優れた天分を見込んで、是非、伜善兵衞の嫁にほしいと懇
望した。両親からこの話を当人の耳に入れた処、生来身体
が余り丈夫でない処から、浄土に憧れ、かねて尼になりた
いと思われて居た頃の事とて、返事を渋って居られたが、両
親から、嫁して夫に仕えるこそ清浄な婦道である、と、懇ろ
に諭される言葉に納得して、

「そちらへ参りましても、夜業終えて後は、念仏唱える事を
お許し下さる様に。」

との希望を添えて、承知された。

 かくて、文化七年九月十五日、振袖姿で駕籠に乗り、五荷
の荷を持って、庄屋敷村の中山家の人となられた。時に、
教祖十三歳であった。

という結婚の問題が一番重要になってくるわけです。

重要というのは、庄屋敷村の善兵衛さんが、何十町歩という
豪農で、というような伝記もつくられていたのです。また、十
数町歩の田地を持つ地主であり、何不自由ないご新造さん
であったとか、小さくても十数町歩と書かれていたのです
が、実際に中山家が警察に出した書類によると、三町歩くら
い、「余り」でなしに三町歩「以内」であったらしいと思われる
書類が残っているわけです。

 そうすると、全然様子が違ってくるのです。「庄屋敷村地
誌」を見ますと、庄屋敷村は、三島村の枝村として出てきた
ので、幕末に各村の庄屋が無足人になったときも、庄屋敷
村の善兵衞さんは無足人になっていません。身分が一段下
の村の庄屋であったからです。

 こういうことが地元の天理はもちろんのこと、奈良県の記
録、また今では地誌がいろいろと書かれております。

 差別問題がうるさくなって、昔書いたものが出版できない
今日になりましても、これはごく当然の表現である、差別問
題に配慮した表現であるとして、今でも出されている角川書
店の地名辞典を見ましても、庄屋敷村は三島の枝郷、枝村
であったと書かれてます。

 そうなりますと、これは話がだいぶ違うということになってく
るのです。

 そういう点で見ますと、庄屋敷村の中山家に嫁いでいた叔
母きぬという方の問題が出てくるのです。

 三昧田村の大庄屋まで勤めた前川家の長女が、幕末に
他の村の庄屋さんはみな無足人になっても、無足人になれ
ない身分の枝村の庄屋、本村の本百姓ではない家、そうい
う人たちのところに、格式のうるさい時代になぜ嫁に行った
のだろうかという問題になるわけです。

 この叔母はきぬという名前ですが、実は前川半七さんの
奥さんの名前もきぬなのです。

 前川家から枝村の庄屋へ嫁に行ったきぬさんと、長尾と市
磯という、大和郷の名家として神社の祭神に近い家柄という
ことで知られている長尾家のきぬさんとが同じ名前というこ
とで、そういう偶然でいろんなことを勘違いするのですが、
実はこの叔母のもう一つの名前が伝えられています。それ
はアグリという名前です。

 このアグリという名前は、女の子ばかりで跡取りが生まれ
ないときに、次は男の子が生まれて欲しいと思った時、付け
る名前といわれていました。または男の子が生まれても
次々死んでしまって、本当に丈夫な男の子が生まれて欲し
いというときに、生まれた女の子にアグリと付けて次の男の
子を期待する、というような命名の俗信があったのです。迷
信の風習です。

 いろんな有名な人、忠臣蔵にもアグリという名前の女性が
出てきたりします。

 けれども、すでに兄さんの半七正信がいますし、その後に
ももう一人弟さんがいるのです。その次にこの叔母きぬが生
まれています。それで中山家に嫁いで、ある時期にきぬと
名乗ったのですが、それ以前はアグリと呼ばれていたという
有力情報があるのです。そのことは一部の教祖伝には文字
にもなっています。

 そうすると、この名前の命名の由来からいって、この叔母
は果たして前川家の中で生まれたのだろうかという疑問が
あるのです。前の代の、みきさんからいうとおじいさんに当
たる方が、三昧田村の前川家の中で生ませた子ではなく、
よその村にいる女性に生ませた子を、今風にいえば認知し
た娘というのならば、枝村に嫁いでいても何の不思議もない
のです。

 後で説明する機会があると思いますが、この時期の身分
社会は、皇族、華族、士農工商などの家の中が皆同じ身分
かといいますとそうではないのです。一軒の家の中でも主
が身分を持っておりまして、女房も子供もそれに従う一員で
しかないのです。主一人が税を納めている人間として有資
格者でありまして、ほかのものはそれに従属、服従する奴
婢、奴隷でしかないというのが家父長制度なのです。

 家父長制度は家の中の平等などということはなく、当主以
外は服従すべき人間なのです。跡取りと跡取り以外の次
男、三男とはぜんぜん身分が違うというのがこの時代なの
です。

 そういうことも承知しておりますと、次男、三男などの本村
の跡取りでない人たちが作った村が枝村なのです。簡単に
いえば、新田開発などで枝村ができ、そこの人は枝村の人
として差別されたのです。

 差別される村といいますが、いってみれば次男、三男たち
の村ともいえるのです。女は氏なくして玉の輿といわれるの
は、女は五女だろうと六女だろうと、跡取りの嫁さんになれ
ば、その家の主の妻になれるということなのです。

 それを承知しておりますと、多分前川家の半七正信さんの
妹さんはよそで生まれて、そしてこの枝村の嫁さんになった
のではないかと考えられるのです。

 そして、文化七年九月十五日にみきさんは中山家へ嫁が
れたというのです。これは陰暦ではずっと後の秋も深い頃で
す。

 夏祭りの見物のときに、庄屋敷村の叔母きぬさんがいると
ころに行ったことが、結婚のきっかけということになっていま
すが、どうしても嫁さんに欲しいという叔母きぬの切なる要
求と、親たちが、どうしても嫁に行きなさいと強い言い方をし
ているのが、十三才の子供にはどうもそぐわない。そして嫁
に行けといわれたみきさんは、尼になりたいという。これは
大変にそぐわない出来事なのです。

 前川半七さんの妹が枝村に嫁いでいた。そこにみきさん
が祭り見物に行った。その時に、うちの嫁にもらって当然と
いうような出来事があったのではないか。それで強く自分の
親は三昧田村の庄屋だ、そこのお嬢さんをどうしても嫁に欲
しいという強い言葉が、枝村であるのに出てくる。やったほ
うが良いという親たちの判断がある。何かそういう出来事が
あったのではないかと推定される書き方が、どの伝記にもと
いっていいくらいに出ているのです。

十四歳で里帰りされた折には、着物は派手な振袖であるの
に、髪は三十女の結う両輪であったから、村人達は、三十
振袖。と、私語き合うた。

 そして「三十振袖。と私語き合うた。」と、大変に振り袖にこ
だわって、本当に里帰りのときに振袖を着て里帰りしたよう
なことをいって、振袖で、年寄りの髪を結っていたというよう
な無理な説明があったりしますが、これは日本の江戸時代
から近頃にかけて、「三十振袖」という悪口の決まり文句が
あったのです。

 これはまだ日本に売春婦制度が公認されていたころ、商
売柄けばけばしい派手な服装をしている売春婦に向かっ
て、振袖を着ていなくても三十振袖といった言葉です。

 七十才を過ぎて客を引いて男を騙していたという記録が
昭和になっても新聞に出ていたような社会でしたから、三十
振袖というのは、売春婦を蔑んでいう悪口の決まり文句で
あったということを考えますと、振袖を着ていたということで
はないことを知っていただきたいのです。

 三昧田村の大庄屋の娘さんでも枝村の嫁さんになります
と、その当時の風俗としては、枝村の服装の制限というもの
があるのです。

 たとえば髪を結うのに、貴族は紐で結んだのです。庶民は
紙縒りで元結というもので結んだ。枝村では藁で結べといわ
れました。藁といってもきれいに叩いてなめしてありますが、
藁で結ばなくてはいけないという身分の規制があったので
す。

 そういう姿を見ますと、当時は三昧田村から庄屋敷村まで
結構距離がありますから、大庄屋の娘さんがどこへ嫁にい
ったのか知らないけれども、里帰りしてみたら「何、あの服
装は」という目を引いたということです。

 中山家が大きな所帯で使用人が大勢いて小作が何人も
いるというような話は合わないのです。それは作り話だとい
うことを理解していただきたいのです。

夫にはよく仕えて些かも逆らうこと無く、一家は睦じく楽しく
暮された。

 当時女房は、夫に逆らうことは許されておりません。

舅から、そなた髭をよう剃るか。と、尋ねられた時に、

というのは、誰かが話したことを書いただけでありまして、当
時安全剃刀はありませんから剃刀と砥石というのはどの家
にもあったものですし、たいてい髭は本人が剃ったもので
す。それほど信用されていたというのですが、ある意味では
当然なことで、別段変わったことではないのです。

後年、「私は、幼い頃はあまり達者でなかったが、百姓仕事
は何でもしました。只しなかったのは、荒田起しと溝堀りとだ
けや。他の仕事は二人分位働いたのやで。」

と教祖は後に語ったというのですが、これは教祖の語った言
葉として残ったのだと思います。

 荒田起しと溝堀りは、大体がその家一軒ではできないこと
です。新しい田んぼを作るのは、村が相談の上で、ここを開
発しよう、水を引こう、ということになるのです。水利権がう
るさいものですから、こういうことは村の相談の結果でない
とできないことなのです。

 そしてそのときには、どの家の男が何人出るということま
で決めるもので、働き者だからといって勝手にその家の嫁さ
んが出る仕事ではないのです。ですから教祖の言葉として
これが残ったのであったら、野良仕事は何でもやりましたと
いう意味の言葉です。

綿木引きをしても人の倍も働かれ、

というのですが、これはひとつは、本村の本百姓というのは
米を作る田んぼでどれだけの税を天皇政府へ納めるかが
本村の本百姓の資格、身分です。

 ある時代に民を良民と賤民とに分けました。民というのは
元来、奴隷という意味なのですけれども、良と賤とに分け
て、本村の本百姓は天皇政府に米を何束納めるから、良民
としての地位となったのです。

 それが時代が過ぎるに従いまして、次男、三男と人口が
増えると、新田を起こし、新しい職業を導入します。新田を
起こしたり、新しい職業を導入するとそのほうがたいてい収
入が良いのです。

 川沿いを整理して水運業をやる。すると、水運業者のほう
が田んぼを耕して良民といわれている人より収入が多いの
です。それから馬借といって、馬で運送業者をやっているよ
うな人も、収入は馬借のほうが良民の本百姓よりも多いの
です。

 けれども天皇家に税を納めているものは威張っても良いと
いうことで、代々天皇家に仕えて貧乏暮らしをしているお百
姓に、お前たちは尊い公民(おおみたから)大御宝という字
を思わせる名で呼ばれても、天皇公認の奴隷という意味な
のです。

 天皇につながる尊い奴隷であるから他の者を蔑んでよろ
しいというような、姑息な政策で農村を治めたのです。

 それで収入がありながら蔑まされる人たちが出てくる。収
入がないのに大威張りをするという人たちが出るということ
になるのです。

 よく農民の中の大きな資産家というのがいます。例えば、
本間家とか何とかというのですが、これは本村の本百姓とし
ての豊かさではなく、農村での商業的、いってみれば資本
家としての豊かさであって、昔の天皇政府の本村の本百姓
ではおよそ豊かとはいえません。けれども、周りの豊かな人
間を蔑む資格を与えられていたのです。

 綿作りは米作りよりはるかに収入の多い業種であったの
です。新しい職業のほうが収入が多いように、新しい村のほ
うが収入が多いのです。そういう状態にあったのだというこ
とを知っていただきたいと思うのです。

十六歳の年には、全く安心して所帯を任せた。

というのですが、これが、使用人が何十人もいる、小作が何
十戸もあるような大地主であったら、所帯を十六才の子供
に任せるのは余程大変なことですけれども、三町歩以下で
枝村の庄屋という立場でありましたら、早いところ実務から
離れて楽隠居したいというのが実情です。戸主に伴う利点
よりも、負担するほうが多いのです。ですから大所帯を十六
才で任されたという話とは違うのです。

   信仰

時たまの説法聴聞や寺参りを無上の悦びとなされ、

とありますが、このころは家庭内の締め付けが多いもので
すから、自分の檀那寺へ行ってお寺の坊さんの話を聞くの
が息抜きだったのです。ですから家族をお寺に説法聴聞に
やらない戸主は、逆にお咎めを受けるほどのお寺の地位と
いうものがあったのです。説法聴聞というのは、ひとつには
教理を求めて一所懸命通ったばかりではないのです。

 それから「文化十三年春、十九歳の時、勾田村の善福寺
で五重相傳を受けられた。」というのですが、この年のもっと
大きな出来事として善福寺の過去帳を見ますと、みきさんは
死産しております。泡水童子と戒名を付けて葬られておりま
す。

 これが流産ですと、当時はお寺に届けません。死産なの
で泡水童子と名前が付いているのです。この泡水童子とい
うのは、死んで生まれたということです。

 お寺の過去帳には、泡水童子の死亡の日付として八月十
日という日付が残っています。五重相傳は春に受けたという
ことですから、五重相傳のほうが先のように書いてあります
が、そこのところはわかりません。ただ春と伝わっているだ
けで、期日はわからないのです。どちらが先か本当のところ
はわからないと思います。

 そして、お寺の坊さんの、今度の五重相傳で一番真剣に
まじめに仏法を求めたのはみきさんである、という話が残っ
ています。

 このように、何一つとして申し分の無い嫁御であられた
が、子供の遅いのが、たゞ一つの気懸りであった。

 このとき死産していますから、これは余計な言葉です。

   女中「おかの」の話

 その頃、かのという女衆があって、善兵衛の寵をよい事
に、日増しに増長して勝手の振舞いが多く、終には、教祖を
ないものにして、我が身が取って替わろうと企て、或る日の
事、食事の汁のものに毒を盛った。

というようなことが書かれています。

 これはたぶん勝手に作られた話だろうと思います。自分を
無き者にしようとした人にまで救いの手をさしのべた素晴ら
しい人、と作者は誉め言葉のように思うのですが、これは少
しも誉められた人柄ではありません。むしろ誉めるつもりで
貶したエピソードだと思います。

 おまけに「かの」という名前は秀司さんの娘に「かの」と言
う名前があるのです。

 事情があって母親と名乗ってはいけない人に産ませてし
まった秀司さんの子に「かの」「音次郎」という姉弟がいるの
です。

 自分の母親を毒殺しようとした女中の名前を、自分の子に
付けるということはありえないですから、この話は作家が誉
めことばのつもりでこういうエピソードを加えたということで
す。

 決して人柄の崇高さを示すエピソードではないので、この
ような話はしない方がよろしいのです。

 そして、天理教教会本部が正式に出版した天理教教義及
史料集成部発行『復元』に、史料集成部主任でありました山
澤為次先生が、かの、という娘がいるということは研究者の
皆は知っていますから、その人たちに、

 白牛がお屋敷の前を通りかかったら教祖が「あれはおか
のの生れ代りや」とおっしゃった。

という話がまことしやかに語られていることに対して、これは
誰かが勝手に言いふらした話だろう、と『復元』ではっきり文
字にして否定しているのです。ですからこのような話はして
はいけないのです。

 文政三年六月十一日、舅善右衛門は六十二歳で出直し
た。

 教祖は、この年、冬の頃から懐妊になられ、翌四年七月
二十四日、二十四歳で長男を産み、善右衛門と名付けられ
た。後に改名して秀司と名乗り、長く教祖と苦労を共にした
方である。初めての子に、しかも男兒を授かって、善兵衛の
喜びは譬えるに物もなく、明るい喜びが家の中に溢れ、新
婚の頃にもまさる楽しい日々が續いた。この秀司懐妊中に
は、身重の身をもいとわず、姑を背負うて屋敷内はもとよ
り、近所の誰彼までも訪ねて孝養の限りを盡された。

と書いてあるのですが、庄屋敷村は隣同士が皆密接してい
るのです。三島の庄屋さんが少し離れたところに屋敷を構
えて、その庄屋さんの足達の家と三島神社の間に、どんど
んと密接して家を建てたのです。

 今の三島の町というと、稲天とか何とかという店のあるとこ
ろと思っていただければよいのです。しかし、その庄屋敷と
いう村の名になった足達の家は、今の本部の敷地内です。
今の敷地内と三島神社の間に出来たのが庄屋敷村なので
す。三島の本村から三島神社の間ではないのです。

 今の本部回廊の中に足達の家があったのです。そこから
三島神社の間に出来たのが庄屋敷村です。そこへ身重とい
っても、姑さん(相撲取りみたいな大女ではないのです)を
背負って、二・三軒先まで行ったからといって、普通は話題
にならないのです。

 それが話題になったとしたら、これは、秀司懐妊中ではな
く泡水童子を懐妊中に、姑さんが駄々をこね、それで、おぶ
って外を歩いて、そのために死産したとしたら語り草になる
のです。

 ですからたぶんこの話はそのような食い違いがあるので
はないだろうか、というようになっているのです。

 ましてその後に出てくる、

 或る時、米倉を破って米を運び出そうとする者があった。
男衆達はこれを見付けて取り押さえ、訴えよう。と、騒いで
居たが、ふと目を醒まされた教祖は、人々をなだめて、

「貧に迫っての事であろう。その心が可愛想や。」

と、かえって労わりの言葉を掛けた上、米を与えてこれを容
された。

 このように書いてあるのですが、特に村松梢風という大作
家が、この米を与えた小作人のところに他の男衆に米俵を
担がせて届けたらそこに娘がいて、口減らししたい、それで
は家の女衆に成りなさい。といって下働きに使っているの
が、善兵衛さんを騙してその寵を得て、教祖を毒殺しようと
した、おかのである。とこう書いているのです。

 ところが米倉は無かった、住み込みの男衆は居なかった、
小作に出すほどの田地は無かったのです。

 これは誉めるつもりで貶している典型的な姿のエピソード
です。お金を与えて作家に、勝手に誉め言葉で、書いてくれ
というような教祖伝の作り方をしたのです。

 芹沢光治良さんは、このような書かせ方をした人たちに物
凄く抗議しています。自分に対しても、何も情報も与えずに
調べさせて、その結果情報操作をして、嘘を書かせたという
ことを、芹沢光治良さんは大変に怒っているのです。

 そういう教祖伝には、教祖の素晴らしさを掻き落として、ヘ
ドロを塗ってしまうようなエピソードが書かれているのです。


   吾が子を捧げて命乞いは不可

 出産の度毎にお乳は十分にあったので、毎度、乳不足の
子供に乳を與えられたが、三十一歳の頃、近所の家で、子
供を五人も亡くした上、六人目の男の兒も、乳不足で育てか
ねて居るのを見るに忍びず、親切にも引き取って世話して
居られた處、計らずもこの預り子が疱瘡に罹り、一心こめて
の看病にも拘らず、十一日目には黒疱瘡となった。醫者は、
とても救からん、と、匙を投げたが、教祖は、

「我が世話中に死なせては、折角お世話した甲斐がない。」

と、思われ、氏神に百日の跣足詣りをし、天に向って、八百
萬の神々に、「無理な願では御座いますが、預り子の疱瘡
難かしい處、お救け下さいませ。その代りに、男子一人を残
し、娘二人の命を身代りにさし出し申します。それでも不足
で御座いますれば、願満ちたその上は私の命をも差上げ申
します。」

と、一心こめて祈願された。

 その結果、神様はその願いを叶えて、子供の命を取った。
そして又それをもう一度生まれさせ、又その命をとった。とい
うような神様のなされようがまことしやかに書いてあります。

 これは何で、まことしやか、とはっきりいうのかと言います
と、おさしづの中に、別席でこの話をしてはいけない、と厳し
く禁止しているおさしづが何回も出ているのです。

 そこに、我が子の生命をささげて、人の生命乞いをすると
は大変なことと皆思うだろう。けれども、これはお道の教理
から言ったら、こんなことはおたすけではない。という厳しい
言葉で、その別席を聞いておたすけ人になりたいと言う人
間に、おさづけを授与しないという処置を取っているので
す。

 『おさしづ』をきちんと読めばこのような話は嘘であると本
席が厳しく叱っているのを読むのですから、こういう教祖伝
を書かせた人たちは『おさしづ』を読むなといって売ることさ
えも妨げるような真似をしている者もいるのです。これが天
理教教会本部の現実の姿なのです。

 そして、足達照之丞さんは後には藩士として古市代官所
につとめています。確かに前々から無足人で、武家が住み
着いたというので代々庄屋をやっている有力者です。枝村
の庄屋敷村はその後から派生しましたから、隣同士で三島
村の庄屋と枝村の庄屋が居ても何の不思議もない村の出
来方なのです。

 けれどもこの時代は身分の差が大きく出ていました。

 むしろ本村三島村の庄屋足達家が枝村の人に親しく付き
合ったということが、美しさとして捉えられているのです。

 時には、教祖に命をたすけてもらったのに足達照之丞は
御恩返しをしない、などということを教校の先生がしゃべって
問題になった事もあります。

 足達照之丞は源四郎と名乗ってからも、教祖のことを何く
れとなく心配して、良く仕えてくれた、教祖がお世話した人は
立派に育って恩も知る、恥も知る人であるということまで、伝
わっているのです。

 別席や教校の講師の話しのしようで、この話を真に受けた
人が足達家へ行き、「恩知らず」と申し入れをするような阿
呆な天理教校の生徒までが出てきてしまうような始末です。
ですから、誉めるつもりで貶すような話をするなと非常に厳
しく言われたのです。

 おまけにこれが後になって、色々な所で、他宗の人の所で
も、天理教教祖は立派なひながただ、ひながたを語るのは
お道の人間の義務だなどといって語った時に、天理教の人
は乳飲み子が天然痘に罹らないことが分からないのか、と
いう批判まで出ています。

 この黒疱瘡というのは実はなんだか分からないのです。疱
瘡は主に天然痘を指しますが、顔に痘痕(あばた)ができる
ような伝染病全体を言っていたのです。黒疱瘡というと天然
痘だろうというので、天然痘としてみな話をするのです。

 天然痘は親の抗体を受けている乳飲み子にはうつらない
ので、昔、全員に種痘をしている時でも、乳飲み子の時代
には種痘をやりませんでした。

 そのような批判もあるということです。そしてこの話が教祖
のおたすけであると宣伝したので、とんでもない話まで付け
加わっているのです。

 武蔵の大師に願掛けたというのです。これは南の方の山
澤さんや大豆越村の人たちが、教祖はこちらに願掛けに来
たと言い、櫟本から、櫟枝、安堵の方面のおたすけ人の方
でも、それに対抗いたしまして、教祖はあちらの大師などに
願掛けていない、北の方だと言っているのです。

 櫟本分署跡から、真っ直ぐ西の方へ行きますと稗田という
ところがあります。稗田の売女神社の前を行きますと向うの
川(佐保川)の土手の所に、稗田の大師がある。ここへ願掛
けに来たのだ、などと両者が贔屓の引き倒しを行いまして、
両方に中山みきが願掛けに来たのだ、などという宣伝が行
なわれているのです。

 実際に行って調べてみますと、後世になって作られた話と
いうことだと思えます。

 今述べた事も裏付けとして、これは作り話で、実はこうだっ
たのではないかということが生まれてきたのです。

 のちに、中山みき教祖として尊敬されるような人は、子供
のときにも良く出来た子として伝えられているのです。

 そして、結婚の問題は、結婚は枝村に嫁いだので、村の
人たちはそこでいろいろと、何でああいう村に行ったのかと
いうような噂をしたということが、どの伝記にも書いてある。
ということで、あとは、良く出来たお方が良くつとめられた、と
いうことを後になって書いたということにとどまるのです。

 ですから立教以前の事はよく分からないということで、ここ
の章はあまり時間を掛けずに通過したいと思います。



   無理な願いと一すじ心

                いわいむどう

 神道天理教になってから天理教教祖伝が多く書かれてい
るのですが、ここで問題になるのが、後に別席の中で、「お
ねがい」をかける、生命乞いをする、子供の命をささげます
というような話を、したときに厳しく何度もお叱り頂いている
ということなのです。

そしておふでさきには、「たすけでも拝み祈祷で行くでなし伺
い立てて行くでなけれど」ということが非常に強く言われて
おります。

また、みかぐらうたの中に「むりなねがいはしてくれな ひと
すぢごゝろになりてこい」(四下り目六ッ)という歌がありま
す。これは他の信仰とは大変に違うのです。

 信仰の宣伝というのは、無理な願いをきいてくれるご利益
がある、と言って信者を募るのです。今のにほいがけなど
は皆そうです。これは世間一般の拝み祈祷の、神社仏閣の
宣伝の仕方が今のお道の中に流れてしまっているからで
す。

 けれども教祖の教えは最初から「無理な願いはしてくれな
一筋心になりて来い」というのがお道の原則なのです。

「無理な願い」とは何か。私たち年輩者が別席を聞くとき(昭
和二十二年)別席初試験に「無理な願いというのは」と言わ
されたのです。

「値を出さずに欲しいと思い、たすけ心を持たずに、仲良く
陽気に暮らしたいと思う心が、無理な願いであります。」

別席の前にこれを誓わされたのです。「無理な願いはしてく
れな、一筋心になりて来い」それで「一筋心」とは一体何な
のかということなのです。

「無理な願い」は端的に出ています。みかぐらうたを見ます
と一下り目は、物を持ったら豊かと思うけれど違います、散
財の心で初めて豊かさがあるのです、と無理な願いを根本
から否定しているのです。

 二下り目は、自分の思いを通すことが、支配ということで
はない、治めるということではない。難渋をたすけることで
謀反の根も切れて治まるのだと教えたのです。

 八下り目は適材適所の調和の取れた無理のない世界が
できると説いているのです。

 このようにかつて別席で「値を出さずに欲しいと思い、たす
ける心を持たずに陽気に暮らそうと思うのを、無理な願いと
申します」というお誓いをした、昔別席を受けた人は、大抵
の人が自分で唱えた覚えがあるのです。

 ですから無理な願いとは何なのか、みかぐらうたで「むり
なねがいはしてくれな ひとすぢごゝろになりてこい」の無理
な願いとはこれだというのを皆その言葉を繰返すと分るの
です。

   一すじ心 世界たすけの願い

 教祖は浄土宗の家に生まれ育ったのです。

 それで「むりなねがいはしてくれな ひとすぢごころ」と言う
のは、他力本願ということに深くかかわっているのです。

 念仏を唱えることをお許し下さい、と結婚する時言ったと
言いますが、念仏唱えることを禁止したら、禁止した戸主の
方がキリシタンとして取り締まられるほどの仏教行政でした
から、念仏を唱えることをお許し下さいと言ったと言うこと事
態が、これが作り話ということが分るのです。

 神道国家になってから、それこそ念仏唱えるのが無理な
願いみたいな書き方をしているのです。念仏を唱えるのは
当り前だったのです。

 その念仏とは何だったのか。これは浄土宗・浄土真宗は
阿弥陀様の本願ということを言い、それを念ずるのを念仏と
いうのです。

 ここで本願とは何なのか。これはまだお道を始める以前
に、「中山みき」になった前川るいさんが、弥陀の本願とは、
四十八も本願のあるうち一番大事なのは、「世界一人も余さ
ずたすけたい」これが本願である事は当然知っていたので
す。

 そして浄土系の信仰の中には、その阿弥陀様のお心に添
ってご利益を楽しんでいればよいという「妙好人」と、その間
で阿弥陀様の教えを広めるために寺を作ったり、経典を作
ったり、僧侶のスポンサーになって後押したりする人、「本願
主」とがあるのです。

 阿弥陀様の本願とその本願が世に行なわれるように、寺
を作ったり、経典を作ったり、坊さんに布施をしたりする人を
本願主というのです。

 その本願を持った阿弥陀様とそのお手伝いする本願主に
包まれて、「私は結構で御座います」と過ごしているのを妙
好人というのです。

 これが教祖の子供の頃からずっと考えていた、阿弥陀様
とお寺さんとその有力檀那。こういう本願主のことを檀那と
いうのです。

 それを受けて楽しんでいれば阿弥陀様の救いが庶民にま
で及んだ姿・妙好人。心の安らぎを得て楽しく過ごしました、
何が起こってもナンマダム、ナンマダムとありがたいといっ
て過ごしました、という話が伝わっているのです。

 そういう歴史があったところで、教祖はそれをもっと分りや
すく、「日々に一人ひとりが国々で守護(他力)を生かして陽
気ぐらしを」と借物の理を説いたのです。これはお道と浄土
宗の共通のところなのです。

 日々国々で人々が与えられた環境は既にご利益を受けて
しまっているという考え方が他力なのです。それで喜ぶか喜
ばないかは自分に掛かっているので、ご利益を頂きたいと
阿弥陀様に願いを掛けて念仏するのを自力と言って、これ
はいけないと言うのが浄土系の信仰なのです。

 他力というのは既に守護を受けている。自力というのはご
利益頂くために念仏を唱える。これは同じ南無阿弥陀仏と
いっても「浄土に行く為に南無阿弥陀仏と唱える」これが自
力なのです。ご利益願っているのです。今は不満というので
す。ご利益貰うために念仏を唱えるというのを自力と言うの
です。お題目でも同じことです。

 これがお道になって「おつくしや、ひのきしんして御守護い
ただきたい」、「陽気ぐらしの御守護頂くために、にほいがけ
して下さい、おつくしして下さい」という言い方は、これは自
力として神様を信じていない信仰であると、批難されている
のです。

そういう誤解を、

 世界たすける神あらば 陽気ぐらしの守護願う

 欲の信仰にひたりきる げにあさましき世のならい

と櫟本分署跡保存会会歌の黒田節で謳っていますが、守護
を願っては、もう神や仏を信じていないのです。

 お道でもそういう誤解をしないように、ご利益貰うために信
仰しますというのではいけないのです。人をたすける心に喜
びがあるのです。陽気ぐらししたいから信仰しますというの
は、これはもう違うのです。

それで教えて下さったのが「ひとすじ心」の説明なのです。
阿弥陀様の本願と教祖の願いとどう違いますか。「世界一
人も余さずたすけたい」、同じです。

仏教の世界では仏・法・僧という言葉があるのです。真理を
説いた人と真理そのものを「仏」、教えを「法」、たすける人
たちを「僧」というのです。

すると教祖は仏・法・僧なのです。それを別けて教えたので
す。

 教祖は、世界一人も余さずたすけたい本願を持つ仏で
す。転輪王のつとめで世界を陽気づくめにするたすけ心を
みんなに教えたのです。これを法というのです、真理という
のです。

そしてたすけ一条の喜びの手本を見せたのは、一人の人間
として僧の理想・ひながたを、教祖は示したのです。

    心と身体の存命の理

それを我々は教えていただいたから

たんくとよふぼくにてハこのよふを 

はしめたをやがみな入りこむで     十五60 

をや、月日、神とは、おふでさきでは同じ意味に説いていま
す。真理を意味します。

そのおつとめで入り込む神の心・月日の心・教祖の心とは、
教祖のおつとめを理解してしっかり思案して成る程の心に
なって私も通りますと心定めすると、「ようふぼくにてはこの
世をはじめたをやが皆入り込む」これを心の存命の理という
のです。

教祖の心は、たすけ一条の心定めした人の中に生きている
のです。最後のおつとめで、教祖のひながたを私が通りま
すと心定めした人間に、さづけを許すと言われたのです。

その人間がよふぼくと云われるのです。その人間の心の中
に私は入って生きるという宣言が、教祖が身を隠されてまだ
身体が温かいという時、本席のおさしづに、はっきりと説か
れています。これが存命の理です。

御殿を建ててここに生きていますなどというのは神道の教
理です。そのようなのは橿原神宮があるし、高野山でもそん
な迷信で、未だに生身供といいまして、生身の仏様にお供
えするのだといって、きちんと御飯を持っていっています。

その真似をしているのが教祖殿であります。教祖の心の存
命の理は、つとめによって入りこむのです。これが法の世界
です。

 そして、そのおつとめを教えるときに、かんろだいを囲んで
つとめることを教えたのです。

 一番の原則は、ちょとはなしで、男親女親、種・苗代と言わ
れる男種女種が五分五分、半分づつで新たなる人格をもっ
て、あなたのお腹で育つのです。だから調和をとった暮らし
方をしなさい。安産します。これがおびや許しとして教えられ
たかんろだいの理です。

 これを、身体は親から私に生き通し、心は教祖の教えを理
解し、納得し、心定めすると月日入込むのです。心はころこ
ろ入れ変わるのです。


   たすけ一条の心 十二下り手おどり

 借物の生かし方を十二下りのておどりで教えられていま
す。

 最初に物質の世界です。これは一下り目・七下り目です。
「与えも出さずに欲しいと思う」のが、散財の心を忘れた人
間の悩みなのです。次に、難渋たすけを忘れながら、けっこ
うを願ってはいけないのです。これが借物の生かし方です。
難渋たすけの心で治まるのです。

次は、このおつとめのように、ぬくみもすいきも、つなぎもつ
っぱりも、皆それぞれの個性を生かして、補い合いたすけ合
うと皆の喜ぶ世界ができます。これが日の本庄屋敷のつと
めのぢばで教えたつとめの理です。

 それを心に当てはめると悩みが消え、身体に当てはめる
と病が治り、人々のたすけ合いに当てはめると事情が治ま
る。これを教えたのが十下り目です。

 それを私の本性は、私の今は、私のこれからは、と、まと
めたのがかぐらつとめです。人の喜び楽しむように生れつ
いたのこの私、と本性を自覚し、たすけ合えば勇む争えば
いづむ、ここまで育ったこの私、ならば、陽気づくめの世を
創る難渋たすけの生き甲斐に陽気に暮らすこの私、が、か
ぐらつとめで教えたことなのです。これがつとめの理なので
す。ここまで、法です。


   拝み祈祷でない「さづけ」

そして、よろづよから十二下り、ちょとはなし、かんろだいつ
とめで教えた真理を短く、かんろだいつとめの三回の言葉
で、たすけ一条の心になったら喜べますよと取次ぐのがおさ
づけなのです。

 おさづけは病気を治してくださいと無理な願いは掛けては
いけないのです。

 神道の拝み祈祷の信仰に流れた連中が客寄せのために
「身上たすけのおさづけ」などということ自体が堕落、教祖に
背いた教え方なのです。

 身上を治すのはおつとめの理に従って私たちが治すので
す。つとめの理で矛盾が解けて、悩みがなくなり、病が癒え
て、事情が治まる。そのためにおつとめの理を理解して、
「思案して、心定めてついて来い。末はたのもし道があるぞ
や。」と言われたのです。

 たすけ合って陽気に暮らすまでが私たちの信仰でありまし
て、陽気ぐらしの守護を願ったら、信仰を放棄して、駄々を
こねている姿なのです。

 だから「陽気ぐらしのご守護頂きたい」と大祭の神殿講話
でまで話すような時代が三十数年続いた結果、無理な願い
が信仰と勘違いした人たちが、においがけをするのだ、おた
すけをするのだといえば言うほど、世間から遅れたのです。

世間はどんどんと進んだのです。

 特に日本は戦後、力でものを取り、力で領土を欲しがり、
力で支配の優越感を欲しがっていた八紘一宇という方針
が、世界の反対に合って破れた後、その中心に位置してい
たと思われる、思われるだけではなく自分で宣言して、世界
を支配することがこの世界の理想であると八紘一宇を説い
た天皇が、この神話は嘘であります、と言って神道を否定し
たのです。

 イザナギとイザナミが性行為をしたら世界ができました、
人間が生まれました。その支配者として天照大神を生みま
した。その人間が天壌無窮の神勅を下して、吾が子孫が世
界の支配者になるべきであると言って日本の国はできあが
った。だから天皇に命を捧げて世界支配に役立ちなさいと
いう八紘一宇を教えられていたのが、明治から敗戦までの
日本です。その中心が教育勅語です。

それを制度化したのが憲法です。

大日本帝国憲法というのはそのようにできているのです。そ
ういうことでは、一人の天皇が世界を支配することなので
す。

 それに対して皆陽気づくめの世を創りたいという教祖の心